弓馬軍礼武田家の道統



1. 平安時代

弓馬軍礼を基とする武田家は、その発祥を源家としている。第五十九代宇多天皇は、右大臣源能有公に命じて「弓馬の礼」を制定させ、能有公はこれを娘婿の貞純親王に伝えられた。

六孫王経基は、清和天皇第六皇子貞純親王を父とし、右大臣源能有の娘を母として清和源氏の祖となり、こうして「弓馬の礼」は源家が世々相伝することとなった。

次代満仲は、摂津国に土着して多田源氏の祖となり、長男頼光は摂津多田を相続し摂津源氏と呼ばれ、次男頼親は大和源氏の祖となり、三男頼信は、河内国石川郷壷井を本拠とし河内源氏の祖となった。

頼信の嫡男頼義は、弓の達人で若い頃から武勇の誉れが高く、鎌倉の平の直方の娘を娶り、東国支配の拠点を得て、陸奥守、鎮守府将軍として安倍氏と戦い、東国武者との繋がりを深めて行った。

北河内周辺は、「河内の馬飼」が牧を営み、馬の飼育を精力的に行っていた地方であり、優れた馬を財産に清和源氏が台頭した背景があるといわれている。

頼義の息は、嫡男八幡太郎義家、次男加茂二郎義綱、三男新羅三郎義光と神号を名乗りとする特徴があった。

武田家の祖となった義光は、三井寺開祖智証大師の守り神の新羅明神を祀る新羅善神堂で元服し、新羅三郎と名乗り園城寺(三井寺)と結び近江国に勢力を張り、後に常陸国に勢力を扶植する過程で、その長男義業は、常陸平氏吉田清幹の娘を娶り、佐竹氏の祖となり、三男義清は那珂郡武田郷の支配を任され武田冠者と名乗っていた。


義清と嫡男清光は一族である義業・昌義親子や常陸平氏と争い、遂に勅勘を蒙り甲斐国市河荘へ配流となったが、これにより甲斐で勢力を伸ばすこととなり、清光は逸見荘(北杜市北巨摩郡)へ進出し逸見冠者と称し、息は一卵性双生児と言われる逸見光長と信義、次男に加賀見遠光がいる。


2. 鎌倉時代

逸見荘(北杜市北巨摩郡)へ進出し逸見冠者と称した清光には、一卵性双生児と言われる逸見光長と信義、次男に加賀見遠光がいる。

信義は13歳で武田八幡宮(韮崎市)において元服し、武田太郎信義と名乗り甲州で一大勢力を築いた。

遠光は加賀美(若草町)に居住し加賀美二郎と称し、その二男長清は小笠原(櫛形町)に移り小笠原の祖となった。ここに弓馬の礼は武田・小笠原に分かれるのであるが、両家の「射法故実」は同一であったと言われている。

信義は、治承4年4月以仁王の令旨により甲斐源氏を石和に集結させて挙兵し、「富士川の合戦」で平氏に大勝利をおさめた。

この当時の源家の棟梁は、武田信義、木曽義仲、源頼朝であったが、頼朝により義仲は滅ぼされ、信義も疎まれ、惣領一条二郎忠頼は鎌倉で暗殺され、三郎兼信、四郎有義等子息が相次いで謀殺され、文治2年3月9日武田館において自らも命を断つことになる。

武田氏は、頼朝に気に入られていた石和五郎信光が継ぎ、文治3年8月15日の頼朝が初めて奉納した流鏑馬の射手の一人に選ばれている。信光は小笠原二郎長清と共に流鏑馬の射手としてしばしばその名が「吾妻鏡」に見えるのは、二人が頼朝の信頼極めて厚かったからであろう。

信光は甲斐の地盤を固め、伊豆守、伊予守、大膳大夫、従四位下甲斐守に任ぜられ、更に「承久の乱」の戦功により、安芸守護と勢力を広げ、出家して「光蓮」と称したが、寛元2年(1244)鶴岡八幡宮流鏑馬神事に83才で射手を務めたという。

五郎信政が跡を継ぎ、信時、時綱と続き信宗は、元寇に備えて安芸佐東郡(広島市祇園町東山本)に銀山城を築いて移り、甲斐は信政の庶子政綱が治めるようになった。

安芸に移った信時以降、時綱、信宗は惣領家として、甲斐守護、安芸守護として伊豆守を名乗っていた。


3. 室町から戦国末期

武田信武は、足利尊氏の姪を妻とし、観応元年(1351)に彦太郎氏信に安芸を任せて、息信成を伴い尊氏の鎌倉下向に従った。

信武は、政綱系の武田政義を追いやり、甲斐、安芸の守護に任命され、息信成は小笠原貞宗の娘を娶り甲斐守護、甲斐国波賀利荘地頭となり伊豆守、日向守として信玄に続く甲斐源氏の元を築いた。

安芸の氏信は、兵庫助、伊豆守、刑部大輔、安芸守護として武田惣領家を維持していたが、応安元年(1368)安芸守護を解任された。

しかし、武田家は信在、信守、信繁と銀山城を中心とした佐東郡の分郡守護として存続していた。


安芸四代信繁の嫡男信栄は、永享十二年(1440)に室町六代将軍足利義教の命を受け、若狭守護の一色義貫を誅殺し、その功績により若狭守護職に任命され、これを機に本国を若狭に移し、惣領家若狭武田氏が代官を通じて安芸分郡を支配する体制が始まった。

信栄は、戦いの傷が元で28歳の若さで病没したため、弟信賢が、更に弟国信が惣領家を継いでいる。

安芸は、信繁四男元綱が在国して治め、尼子氏と結び勢力の保持を図ったが「有田中井手の戦い」で毛利元就に討たれ、跡を継いだ刑部少輔光和は、武勇に優れていたが毛利との戦いの最中(1535年)に33歳の若さで病没した。

その後は諸説があるが、元光の子幕府御供衆刑部少輔信実が、銀山城主として安芸に入国するが1541年に毛利氏に敗れ安芸武田家は滅亡となる。


若狭武田家は、国信の嫡男信親が24歳で没したため弟元信から、元光へ続き、元光は大永二年(1522)に後瀬山城を築城している。

嫡男信豊の息信統は、足利義晴将軍の娘を室とし武田大膳大夫義統と名乗り、歴代の中でも優れた武将と言われたが、家臣団や親子との相克などで疲弊し永禄十年(1567)に病没した。

元信、信豊は武田家伝来の故実書の写本や編纂をこまめに行い、武田家弓馬故実を世に伝え、信豊の弟信高も騎射に優れ、其の息(細川藤孝の姉の子)英甫英雄も多くの故実書を伝えている。

最後の当主となった武田元明は、朝倉家に拉致され、織田信長の台頭や朝倉家の滅亡等に翻弄され、天正十年「本能寺の変」の後明智光秀に与した為、丹羽長秀により生害(1582年)となりついに若狭・安芸武田氏は滅んだ。


足利義昭の「鞆幕府」の中に、武田信孝・武田彦五郎信方・武田五郎信景等若狭武田氏の名が見えるが詳細は不明である。


4. 安土桃山、徳川期

最後の当主となった武田元明は、足利義晴の娘を母として父義統の嫡男とし生まれ、正室は京極竜子という名家を誇りましたが、家中が混乱して若狭守護職を維持できず、父義統没後には、朝倉家に拉致され、織田信長の台頭や朝倉家の滅亡等に翻弄される事態で、一時は信長により石山城三千石を与えられ、若狭衆として丹羽長秀の与力として命脈を保っていた。


ところが天正十年「本能寺の変」の後、元明は武田家再興の好機として、若狭国衆を糾合して義兄京極高次と通じて、明智光秀に与して近江へ侵攻し、佐和山城を陥落させました。

しかし、「山崎の戦い」で明智光秀が羽柴秀吉に敗れた為、元明は恭順の意を示したが、丹羽長秀により近江国海津に招かれ、7月19日に法雲寺で生害(1582年)となり、ここに若狭・安芸武田家は滅びました。


武田家の道統は、足利義昭の子義頼、その子信泰と続き、最後の武田家嫡流、武田三十郎信直入道吸松斎清芸は、父を信豊の弟信重(信高)、母は細川藤孝公の姉宮川尼とし、英甫永雄を弟としている。

三十郎信直の動向は不明であるが、丹後の細川藤孝公のもとに身を寄せていたと思われ、慶長年間に武田家嫡流の秘伝として伝えた弓馬故実礼法を、縁戚である細川藤孝公に委ね、直弟の竹原惟成に伝授し、以降肥後細川家に於いて永く保存継承される事となった。

細川家では、藤孝公の一男忠興公(小倉城主)、その三男肥後五十三万石城主忠利公になるが、忠利公は政務多忙で閑暇なく家臣竹原惟成に流鏑馬式の実行を命じたのである。

これにより竹原家によって継承され、幕末期には竹原惟路師により熊本川尻町に騎射場が有り、多数の門弟が集まり、流鏑馬・騎射犬追物の稽古が行われていたという。


5. 近代

鎌倉の武田流は、幕末期に竹原惟路師の高弟・代見格として道統の保存継承に努めた肥後藩士井上平太師が、明治期に旧藩主細川護久候より司家の継承を命ぜられ、明治19年9月竹原惟路師より相伝を受けて武田流弓馬司家を継ぎ、その後を昭和9年5月井上平太師の直弟である金子有鄰師が「弓馬皆伝と平太師の遺命」により、細川家の承諾を得て井上平太師より武田司家の道統を継承したものです。


有鄰師は、大正6年鎌倉扇ガ谷に「平安居」を定め、鎌倉の武田流の礎を作り、昭和6年5月5日井上平太師のもと鎌倉宮馬場開きに馬術演技及び騎射公開を行い、同じく8月21日に井上平太師を奉行として初めて鎌倉宮に流鏑馬神事を奉納し、以来鎌倉の地に於いて半世紀にわたり、鶴岡八幡宮流鏑馬神事、明治神宮流鏑馬神事、寒川神社流鏑馬神事等全国各地に於いて、流鏑馬神事を広く天下に公開するという先師井上平太師の遺志の実現と日本伝統馬術の保存継承に生涯を捧げられました。

「流鏑馬は商売ではない。」と自費により多くの門弟の育成に当たると共に、故実伝書の現代語訳に取り組み、「蹄の音」「日本の伝統馬術 馬上武芸篇」等伝統弓馬術に関する著述や講演を行い、その生涯は門弟をして、「古典万巻に通じ、その御造詣と技術に基づき、私達に弓馬術を指導され、その御生涯は国を思い古式の道統を守り、私利私欲にとらわれず、門弟の指導と古式馬術の保存振興に捧げられた。」と言わせるものでした。

特に流鏑馬神事は神社の負担を慮り自費による奉納とし、騎射供覧は実費が武田流の基本方針となりました。


有鄰師は、子息四郎家教範士と六郎家堅範士が武田流を継承する資格があると遺言し、高弟範士らにも兄弟二人を助けて武田流の道統の保持することを託し、昭和55年6月2日鎌倉扇ガ谷「平安居」に於いて没しました。

放光院徳必有鄰居士は、扇ガ谷海蔵寺に眠る。


6. 現在

有鄰師が没した後、四郎家教師は、武田流弓馬道師範、大日本弓馬会会長として明治神宮・鶴岡八幡宮・寒川神社・三島大社など国の内外で流鏑馬・笠懸等の活動を行い、嫡孫金子家暢氏を後継として指名し、平成21年1月に没しました。

一方六郎家堅師は、昭和58年有鄰師高弟等と共に武田流鎌倉派を結成し、武田流門人を正会員とする日本古式弓馬術協会を設立し師範・理事長として活動し、平成23年5月28日には、先師放光院徳必有鄰居士の三十三回忌法要を正統師範として執り行うなど道統の保持に努めました。

平成24年1月家堅師範は、没する直前に直弟伊村直也範士を後継と指名し、伊村師範は、平成24年10月6日、「武家の古都鎌倉」において八十余年武田流流鏑馬の保存伝承に生涯を懸けた、金子有鄰・家堅二代師範の遺徳を偲び、先師ゆかりの材木座海岸において、「武田家伝承の流鏑馬之式」の精神を後世に伝えるため流鏑馬を奉納して、正統師範の継承を披露しました。


今、伊村直也師範は鎌倉の武田流を糾合し、有鄰師直系として武田家伝承の弓馬故実礼法と日本伝統馬術の保存継承のため、流鏑馬神事奉納や騎射の披露、弓馬術や馬上武芸の修練並びに故実伝書の研究、門人の育成など地道な活動を行っています。


「道は正統を求むべく 師は善師に随うべし」